2018.6.14 OPEN!

諭吉の生い立ち

はじめまして、諭吉と申します。

私のプロフィールをのぞきに来てくださって、ありがとうございます!

早速ですが、自己紹介していきたいと思います。

少しでも、私に共感してくださったり、共通点があったりする人がいてくれると嬉しいです。

超長いので、目次で興味のあるところだけ読んでくださって構わないですし、陳腐な小説を読んでいるつもりで温かく生温く読んでいただければ幸いです。

 

 

諭吉、爆誕。

私は、関西のある市街地で生まれました。

生まれるまでにかかった時間は、驚きの27時間。

生まれてきたときには真っ青で、息をしていなかったそうです。

逆さづりにされて、思いっきりお尻ペンペンされ、やっとこさ産声をあげたそうな。

普通なら、誕生と共に優しく抱きかかえられ、これに優るものなしというくらいの愛情に包まれるであろうに、

私は初っ端からしばかれたわけです(笑)

その上、酸素が脳にいかなかった時間が長かったため、後遺症が残るといわれました。

しかし、その後、特に顕著な後遺症も見られず、すくすくと成長しました。

長子ということもあり、甘やかされ、あらゆるものを与えられて育った私は、超でかい子になりました。

貫禄アリアリでした。(笑)ビッグマムです。(笑)

また、髪の毛が短く、活発だったことから、よく男の子に間違われました。

それが未だにトラウマで、ショートカットにはできません。。。

 

幼稚園時代、悟りをひらく

4歳になったある日、私は、高熱にうなされました。

母親は、連日私を病院につれていったものの、ただの風邪だと医者に追い返される始末。

しかし、明らかにおかしいと思った母は、あきらめずに私を毎日病院に連れて行きました。

(この頃まだセカンドオピニオンという言葉は今ほど周知されていませんでした)

医者に、「私が風邪だと言っているのに、信用できないのか!」と怒鳴られてもひるまずに、

「もう一度詳しく見てください」といったところ、

渋々、医者が精密検査をした結果、脳炎をこじらせていることが発覚。

すぐに医療センターに搬送され、即入院となりました。

あと、一日遅れていたら、普通の生活は送れなくなっていたといわれたそうです。

そして、左下半身に後遺症が残る、と。またもや宣告され。

実際、その時の私は左足をひきずりながら歩いており、母はすごく悲しんだそうです。

 

が、しかし。

またもや私は後遺症を残すことなく、数日後全快。(笑)

これらの出来事がありながらも、普通に成長できたことに私は、

もしかしたら何かしら私には使命があり、それを果たすために生かされているのかもしれない

と思う様になりました。

(まるで宗教みたいですが、違います(笑) 僧侶を目指したわけでもありません(笑))

 

小学生時代へ

そんなこんなで、親や祖父母から大いに愛されて育ち、ますますビッグに育っていた矢先、

待望の弟が誕生。

年の差8歳にして、ようやく弟が生まれてくれました。

兄弟がほしくてほしくてたまらなかった私は、大いに弟をかわいがりました。

クリスマスにサンタさんからもらった、カメラ(当時はフィルムでした)で、弟と飼っていたセキセイインコを激写しまくり、

当時お小遣いは月に300円ほどだったにも関わらず、弟のために500円はするおもちゃを買ったりと、弟を溺愛しました。

しかし、とても幸せだった私の知らないところで、少しずつ歯車が狂いつつありました。

親がいわゆるリストラにあったのです。

しかし、この事実を知ったのは大人になってから、最近の事でした。幼かった私のことを思った親は、事実の詳細を知らせることができなかったのでしょう。

昔一度、親から「これからもしかしたら、あなたたちに何か不自由な思いをさせてしまうかもしれない」という趣旨の話をされたことがあるのを覚えています。

まさかリストラにあったとは知りませんでしたが、確かにそれからの生活は以前ほど裕福であったりとか、自由ではなかったりしました。

しかし、文句も弱音も吐かず、一生懸命働いている両親を見ていたので、私たちは特に不自由を感じませんでした。むしろ、そんな親に迷惑をかけたくなかったので、欲しいものも我慢しましたし、後々にもお話ししますが、塾や習い事も行かなかったり辞めたりしました。

きっとすさまじい気苦労があったでしょう。それを隠しながら、毎日私たちを育てるために必死に働いてくれていたのですね。朝ご飯も夜ご飯も必ず毎日母親が作ったご飯でした。中学の頃のお弁当も必ず毎日作ってくれていました。(むしろ逆にコンビニのパンや、学校内で売っているパン(パン昼「パンちゅう」と呼んでいました)を食べている子のことをうらやましく思うくらいでした(笑))

そんなことがありながらも、私と弟を何不自由なく育ててくれたことに心から感謝しています。

母は若いうちに結婚して私たちを生んだので、きっと大変だったこともあると思います。私は既に私を生んだ頃の母の年齢を優にこえてしまいましたが、母のように子どものために時間を割くという生活を送れる自信はありません。(笑)

母は、偉大ですね。

 

何もかもうまくいっていたかもしれません

中学校に入学し、近隣の小学校が合併し新たな友達も出来ました。

私は小学校のころから割と活発で、友達になりたい子には、「ともだちになろう!」と声をかけるなど、まるで外国育ちなくらいに、積極的でした(笑)

休み時間も男の子たちと鬼ごっこやキックベースをして、今じゃ考えられないです。

(現在の私はかなりのインドア、運動嫌いです)

中学校でも、その活発さをいかんなくなく発揮し、沢山の友達を作ったり、学級委員になったり、合唱コンクールのピアノの伴奏をしたりしました。

学業面でも基本的には、上位5位以内には入っており、1位をとるために必死に教科書の隅から隅まで暗記するというマニアックな野郎でした(笑)

周りからも「賢い子」というレッテルを貼られていたので、常に上位にならないといけないというプレッシャーと、

高得点を取ることに快楽を覚え(笑)、いそいそと勉学に励みました。

成績表は1年生の前期以外は常にオール5でした。

しかし、塾に通ったり、通信教育を受けたりはしていませんでした。

家計に余裕がないことを、悟っていたからです。

周りは塾に行っている子が多かったので、「今日7時から塾や~」とか言ってるのがかっこよくも聞こえました。

 

そんなに人生甘くない

高校に進学しました。

一応県下ではトップクラスの公立高校でした。

周りからは、絶対受かると思われていたし、自分もそうだろうと自然と思っていたので、(おごっているとか自慢しているとかではありませんよ)嬉しいとか誇りだとかは思いませんでした。

親からも、「公立ならどこでもいい」が口癖でしたから、特にお祝いなどもありませんでした(笑)

しかし、制服がブレザーだったので嬉しかったです(笑)(中学はセーラーだった)

部活にも打ち込み、小学生の頃から続けていたトランペットを担当していました。

なぜか部内の選挙で当選し、部長に就任して100人以上の大所帯をまとめた時期もありました。

成績も、2年生まではまずまずの結果でした。

やはり、県内から優秀な子が集まっているので、簡単に上位に入ることはできませんでした。

テストもとても難しく、満点なんかとれませんでした。

中学の時は、いかに多くの教科で満点がとれるか、が楽しみであり、それがモチベーションになっていましたが、

高校では、200点満点のテストを50点とるだけで偏差値が60超えるなんていう鬼のようなテストで(笑)、

まったく達成感を感じたり、モチベーションをあげることができなくなっていました。

中学の頃は、確かにテスト勉強は一生懸命やっていたし、授業中はしっかり集中して受けていましたが、

そこまでがっつり勉強するというタイプではありませんでした。

私の勉強スタイルをお話ししますと、家に私の部屋なんてものは存在しませんでしたので、いわゆるリビングで勉強していました。

もちろんリビングなので、親もいます。

もちろんリビングなので、テレビもついています。

はい、テレビ見ながら勉強してました(笑) 親には聖徳太子って呼ばれてました。

なので、学校とかでも流行りの番組の話題に全然ついていけてました。

よく、テスト前とかに、「私全然勉強してへんで~」っていう人、いるじゃないですか。

でも、裏でこっそりがっつり勉強しちゃってるっていう。そういう子はやっぱりテレビとか見ないで塾にいってるから、昨日どんな番組やってるかも知らないわけです。

でも私は、本当に勉強してなかったんですよね。(笑) だからテスト前だろうとなんだろうと、テレビの内容は熟知してました。無人島にもっていくものは迷わずテレビと答える根っからのテレビっ子でしたので。

今でも、「諭吉はほんとに勉強してないんやな~テレビごっついみてるもんな(笑)」と友達から言われたのを覚えています。

機会があれば、ブログでもお話ししたいと思いますが、私立ではなく公立のトップクラスにいきたいのであれば、余計なことに気を割かず、学校の授業をしっかり聞き、教科書の内容さえしっかり理解できていれば、全然余裕で目指すことができるのです。

と、いうわけで、高校に入ってからもそのスタイルを貫いていたのですが、ついに高校3年生の時、大きな壁にぶちあたります。

高校3年の時、数学のテストでへまをこき、1つ下のランクの数学のクラスになってしまいました。

私の高校では、テストの点数によって、英語と数学の授業のクラス分けが行われていました。

一番賢いクラスと、真ん中くらいのクラスと、苦手意識を持った子が多く集まるフォローくらすの3つです。

今迄特に何も疑わず、1番上のクラスで授業を受けていたので、ランクが落ちたときは、「まあ、次のテストでまた戻ればいっか」程度に考えていました。

しかし。この真ん中のクラスは、通称「アリ地獄」と呼ばれていました。名付けた人、ナイスすぎます(笑)

担当の先生は京大出身の人だったのですが、まあ~授業がわかりにくいこと!(笑)

頭のいい人って、頭のよくない人の気持ちがわからないので、「いや!そこ説明してよ!」ってところを当たり前にとばすんです。

そんなこんなで、このクラスに配属された人は、余計にちんぷんかんぷんとなり、二度と上のクラスには戻れない、ということで、アリ地獄と呼ばれていました。

そこにまんまとハマった私は、例外なくそのクラスから逃れることはその後ありませんでした。

もともとそこまで得意でなかった数学が、よりいっそうちんぷんかんぷんになり、苦手意識だけがどんどんと膨らんでいきました。

災難はこれにとどまりませんでした。

なんと、英語のクラスでも1番下のクラスまで落ちてしまいました。

私は、この頃も積極性を失っていなかったため、立候補して英語のスピーチコンテストとやらに参加したりしていました。

2年生の頃にそのコンテストに参加したのですが、部活の合間をぬって必死に練習し、地区大会で優勝して県大会に出場していました。

そんなこんなで、今まで英語が苦手だと思ったこともなかったのに、急に成績が落ちたのです。

自分でも信じられなくて、ショックでした。

まあ、今回はたまたまだろう、と思っていたのですが、なんと次のテストでも1番下のクラスに配属されました。

一気に自信を失いました。

1番下の英語のクラスはとても雰囲気も悪く、だんだんと体調が悪いということを理由に、英語の時間は保健室にいくようになりました。

(今迄、仮病を使ったり、保健室を利用するなんてことはありませんでした。どっちかというと、

ヤンキーの友達が保健室で籠城しているのを保護しに行く立場でした(笑))

こうなるともう、負のループです。

授業にも出ていないので、ついていけなくなり、その後1番上のクラスにもどることはありませんでした。

 

私は難儀な性格でして、人と同じことをするのをとても嫌がります。

3年生となり、受験モードに突入し、今迄遊び呆けていた友達たちが次々と勉強に励みだしたのです。

それを見た私は、「うわ、なんでこんな必死に勉強しているんだろ、気持ち悪い」と思い(すみません(笑))、勉強を拒むようになりました。

こうなると、より一層成績は下がる一方。

いよいよセンター試験の日を迎えました。

センター試験では720点をとりました。

本当は京大に行きたかったのですが、二次試験も苦手でE判定でしたし、センターと合わせてもD判定しかでませんでした。

浪人はできればしたくなかったので、京大を諦めて、大阪大学の経済学部を受験することになりました。

経済を志望した理由は、就職に困らなさそうだったから(なんて陳腐な理由だ)

そして、その学部を受験する人の中に、学内でとっても嫌いな人がいました。

そのことを知った瞬間、一気にやる気がなくなりました。(今思えば理由がお粗末すぎる(笑))

それを知った親は、「そんなことでどうするんだ!」とキレる始末。

そりゃそうですよね。今考えるとそう思いますよ私も。

でも、ほんとにその時は戦意喪失して、全然二次試験の勉強も身に入りませんでした。。。

そんなこんなで、受験当日を迎えましたが、見事に惨敗。

後期で受けた神戸大学でも散りました。

全国の厳しさを知った瞬間であると共に、人生初めての挫折を味わいました。

なんもおもんない予備校生時代

結果的に浪人することになった私は、嫌々予備校というところに通うことになりました。

高校の方針として、浪人するのであれば、絶対予備校に通わないと受からない、通わないなんてことは許さない。ということでした。

今思うと、なんでそんなん勝手に決められなあかんねん!と思いますが、当時の私は渋々予備校へ。

勿論経済的に余裕がないことは分かっていたので、センターの点数に応じて割引額が決まるという予備校にいくことにしました。

幸い8割はセンターで得点していたので、格安で入塾することができました。

一応京大・阪大・神大(神戸大学)を志望している人が集まるクラスに配属になりました。

まあ~この予備校がいやでいやでたまらなかったんですよ。(笑)

高校のところでも述べましたが、人と同じことするのが嫌いなんですよね。

予備校って何するところですか?

そう、勉強するところなんですよ。

この予備校は現役生はおらず浪人生のみの学校だったので、まあみんな浪人しても行きたい大学がある・勉強せざるを得ない人たちのたまり場なんですよ、要は。(言い方悪くてすみません)

そんな環境に、アマノジャクな私がいられるわけないですよね。

はい、その通りです。(笑)

授業はしゃあなし嫌々受けてました。でも、同じクラスに嫌いな人もいましたし(先ほど出てきた大阪大学の経済学部を受けるといった苦手な人です。この人も見事落ちていたようです)

授業と授業の空きコマは、通常の浪人生なら自習室で勉強するものなのですが、私は駅前のミスドにわざわざいって時間(とお金)潰してました。

塾長はそんな私の行動を見てたんでしょうね。

呼び出されて何で予備校で勉強しないんだと怒られました。

そもそも、カリキュラムが組まれてて、この時間に生物うけろだの、国語の長文を読めだの、嫌なんですよ(笑)

今まで塾に行かず我流でやってきてたのに、拘束されるだけで無理なんですよね。

いや、ホントに向いてませんでした。向いている人には最適の勉強空間だと思います。先生も素晴らしい人達ですしね。空調もちゃんと完備されてて、静かな環境だし。

でもそもそも日本語のテレビ見ながら英語の長文読むような私です。静かすぎて落ち着きませんでした。。。

お金もなかったので、夏期講習や冬期講習、センター直前演習など、オプションに関しては一切受けず、これまた塾長から怒られました(笑)

まあ、そんなこんなで予備校に行ってた私。

行くだけで、なんか満足しちゃうんですよ。

電車で40分くらいかけて毎日いってましたから、行ってるだけで、達成感わいちゃうというか。

なので、家に帰ってからは疲れてしまったのと、もう今日は予備校で勉強したもん!ってことで、ほとんど勉強していませんでした。これは思わぬ落とし穴でした。

と、いうことで結末は見えてますが、センター試験は去年とさほど変わらず740点ほど。

京大はC判定ということで、今年もまた安全パイで大阪大学の文学部を受けることになりました。

いやぁ、京大行きたいのに、受けたことすらない・・・

空しすぎて、また勉強に身が入りませんでした。

私立は入学金(合格を確保するために払うお金)が高かったので、はなから受けませんでした。

かわりに、秋田にある国際教養大学を受けて、合格しました。(就職率がむちゃ高くて授業全部英語、一年間の留学必須ってとこです)

でも結局ここも、県外からの進学者は入学金超高かったんですよ。(42万くらいだったかな・・・)

そんなもの行くかわからないのに親に払わせるわけにはいかないやろ、ということで、泣く泣く蹴りました。

これで前期後期ともに落ちたら自己責任なんで、自宅浪人しよって思いました。

後期は大阪大学の外国語学部を受けましたが、前期後期案の定落ちました。

やっぱり世間ってそんなに甘くないです。判定が良かったから程度では受かんないです。みんな必死にその大学狙いにいってるわけですから。やっぱり不合格なのは悔しかったです。一応は勉強したわけですからね。今思うと努力が足りなかったとは思いますが、やっぱり当時の若き私にとっては必死でしたから。努力なんて報われないんだな、とかも思って、親とも喧嘩になって、数日間一言も話さずひきこもったりもしましたよ。

ちなみに、予備校はいいところですよ。私には合わなかったですが、合う人には確実にいいと思います。いろいろとフォローしてもらえますしね。

何より、素敵な仲間に出会えます(なんか専門学校のパンフみたいなこといってる)

でもほんとです。やっぱり一度不合格っていう烙印を押されても、あきらめずに夢を追いかける人って素敵な人多いです。感化されることがたくさんありました。

今でも予備校の時の子とは連絡をとってあっています。そういう面ではいってよかったなと思っています。

 

自宅浪人って最高

そんなこんなで有無を言わずに自宅浪人することになったわたくしでございます。

高校の先生に報告しにいったら、「まあ、一年は予備校に通ってノウハウもついただろうから、自宅でもいいんじゃないか」といってもらえました。

そうと決まれば、さっそく勉強です。

自宅浪人というスタイルは、少なくとも私にはぴったんこでした!

  • 自分で好きな時間から好きな時間まで勉強できる
  • カリキュラムを好きなようにくめる
  • 家から出なくていい(この頃からインドアになっていました)
  • 嫌な電車に乗らなくていい(嫌な目にたくさんあいました)
  • 誰にも会わなくていい
  • 休憩時間に撮りだめたドラマが見れちゃう!

といった具合で、メリットまみれでした。

でもね、すごい重圧とも戦ってました。

やっぱり一人で勉強しているので、自分の今の立ち位置がわからないんですよ。

今自分は京大を目指して勉強している人の中でどれくらいの位置にいるんだろうって。

なので、定期的に外部の試験は受けにいって、それを確認していました。(京大模試みたいなやつです)

自分に目に見えないライバルたちがいて、その人がどんどんと賢くなっていくって想像するだけでとても怖かったです。やはり浪人生は経験とかで2次試験とかは強くても、現役生は伸びしろがすごいっていうから、とても怖かったですね。そういう言い知れぬ恐怖とは常に背中合わせでした。

あとは、2浪っていう重圧です。これは経験した人にしかわからないと思います。

2浪でそこそこの大学には恥ずかしくていけません。それなら現役でいっておけばよかったじゃんって話ですから。

人より時間をかける以上は、それなりのところを目指さないとシャレにならないんですよ。私はそう自分で思っていたので、必死でした。背水の陣とはまさにこのこと。

やっぱりそういう精神的ストレス・重圧は半端なかったので、この若さにしてストレス性の胃炎になりました。(いまだに食べ過ぎたり調子が悪いとそこがしくしく痛みます)

こういった代償も発生するので、何かしら決定的な理由がない以上は、決して人には自宅浪人とか2浪はおすすめしません。

私の場合、国際教養も蹴っちゃったし、私立も受けてなかったしで単純にいくところがなかったってのと、やっぱり京大を諦められなかったっていうので、やむなくでした。

自分で不合格になったくやしさ、周りの人から笑われた経験、そんなのを踏まえて目標を筆でしたためました。それを机のみえるところにはって、毎日くじけそうになったらそれをみて自分を奮い立たせていました。

「諭吉、立つんだ、諭吉。」

自分の目標をかなえるため、周りを見返すため、必死でした。

センター試験ですが、もう3回目だったのでベテランですよね(笑)

でもこれだけは本当に苦手で、何回受けても緊張します。嫌なもんです。

結果は780点でした。英語は197点(逆にその3点どこでミスった?と周りから言われる始末)国語も180点でした。(古文以外満点で古文で20点落とすというやばさ)得意の生物と日本史も90後半でした。

問題は社会ですよ。この頃はすでに地歴から1科目、公民から1科目ではなくなっていたので、私は政経が苦手だったので、地歴から2科目受けようとしたんです。ただ、京大は二次に社会があるので、センターでは二次で受けない科目で勝負しないといけないんです。

私は日本史が得意だったので、もちろん二次は日本史で受けます。となると、残るは世界史か地理です。

まあ普通は世界史とりますよね。私も高校の頃は世界史とってたので世界史で受けました。しかし私、どうしても世界史がだめで・・・ルイとか何人おんねん!ってなってましたから(笑)

世界史のDSのゲームを買ってみたり、補講にいったりしても60点から逃れられませんでした。

と、いうことで、自宅浪人でありながら、地理を一年間独学で勉強しました。参考書は大学に入学した同級生に譲ってもらって。

しかし、この年は地理が爆発的に難しくなった年で、あえなく65点ほどに撃沈。

世界史とかわんないやーん!ってなりました。

そんなこんなで、社会の傾斜点が悪いせいで、またもや京大はC判定でした。

親も、2浪なのに、そんな冒険するわけにはいかない!阪大にしときな!って感じでした。

でもこれだと今迄と一緒です。確かに安全圏内の点数をとれなかった自分の責任なので、強くは言い返せませんでした。

高校の先生に受ける大学を報告しにいかなければならなかったので、渋々阪大にするといいにいきました。

(先ほどから何回も阪大が出てますが、素晴らしい大学ですよ。けっして嫌だといっているわけではなく、あくまで私が京大で学びたい気持ちがすぎていただけです。阪大が悪いわけではないです)

高校の先生からも、まあその選択は正しい、とのことで、受験校が決まりました。

ひょっとしたら、高校の先生なら、「最後は自分のいきたいところを押し通してがんばれ!」とかいってくれるかなぁ、と期待していったのですが、やはりだめでした。先生もそんな無茶な事いえないですよねぇ・・・

挨拶をすませて職員室をでて、肩を落として帰ろうとしていた時、たまたま当時の学年主任の先生に出会いました。

「どないやねん、諭吉。」

「センター、またしくじって、京大受けるのやめました」

「お前、ほんまにそれでええんか?後悔せんか?」

ギクッとしました。

「本当なら受けたいんですけどね・・・でもこのセンターでの失点を二次で取り返します!って言いきれるくらいの自信もなくて・・・」

「ちょっとついてこい」

そういわれて連れていかれたのは進路指導室でした。

センターの結果と、今迄うけてきた京大実践模試などの二次形式の模試の成績の結果を見せました。

「これはいけるぞ!ひょっとしたら合格できる可能性もなくはない!」

そういわれました。

実質、実は自信はなかったものの、自宅浪人してからは成績としてはA判定しかとったことがありませんでした。(国語では全国一位もとっていました)

それをドッキングして判定したところ、とにかくかなり低確率ではあるものの(20人に1人だったか・・・うろ覚えです)合格できなくはない。と言われたのです。

そういわれると私も挑戦したいです。というか、そういってくれる人を待っていました。

この先生のおかげで、私はやはり京大につっこむことにしました。この先生にあの時あっていなかったら。私の人生は大きく変わり、今の自分はいないかもしれません。

親にも頭をさげて、理解してもらえました。高校の担任の先生も応援してくれました。

願書を出してからは死に物狂いでした。今までで一番努力したかもしれません。

「落ちれば、二浪で私立大、へたしぃ二浪のフリーター」

その言葉だけがずっと頭にはり付いていました。当時のあのプレッシャーは考えられません。二度と経験したくないです。

不安で不安でしょうがないのを、ひたすら勉強してごまかしました。

一応私立はさすがに二浪で行く宛てないのはまずいので、かつ私立の勉強に時間を割いている余裕もなかったので、センター利用で立命館と同志社を出願していました。同志社はかなり倍率が高かったので、無理かなと思っていましたが、必要な科目が私がわりと高得点とっていた科目だったこともあり、合格しました。

死に物狂いで勉強したものの、2日間にわたる受験は手ごたえのないものでした。

まったくとけなかったわけではないが、周りも賢い人ばかり。まして自分はセンターの失点を取り返さないと巻き返せないという状況でしたので、まったく手ごたえがありませんでした。

家に帰ってから、即刻後期の勉強を始めました。本当にうかる自信がなかったからです。

合格発表の日、本当に嫌でした。

落ちているだろうと思っていたので、勇気も出ず、サイトを開けませんでした。

高校の先生から、業を煮やして電話がかかってきたので、渋々見ることになりました。

合格していました。

信じられませんでした。

高校の先生にも確認してもらい、間違いでないことが証明されたときは、本当に嬉しかったです。

「執念だね」といわれました。

やっぱり、どうしても受かりたい、その気持ちって必要不可欠だと思います。

こんな本気で臨んでいる人がたくさんいるわけです。そんな中で大阪大学にふらっと受験しにいっていたことを恥じました。そら、受かるわけないわ。世の中そんな甘くなくてよかった。そう思いました。

あの時落ちていなかったら、浪人していなかったら、私はとんでもないクズ野郎のままだったと思います。

世間の厳しさがわかって、頭をうっていてよかったなと思っています。

なので、2年遠回りしたことは親には迷惑をかけましたが、私自身は後悔していません。しないにこしたことはないですけどね。

でも私の人生経験としてはよかったです。そして学年主任の先生には心の底から感謝申し上げます。

大学生活もあっという間

とてもいい環境で、志もスペックも高い仲間と勉強に励めたこと、心から嬉しく思い、誇りに思います。

みんな面白くって、個性があって、一緒にいて飽きないです。

アホなことするのに、でもみんなやっぱ京大生。賢いんですよね。

いざというときすぐなんでもできちゃうし、英語の授業とか全部英語でのコミュニケーションでしたが、みんな普通に理解してる。

宿題まで英語で言われちゃうから、ちゃんと聞いてないと宿題すらできないという(笑)

4年間本当に濃い学生生活を送れました。

バイトも沢山しました。17連勤とかしました(笑)

朝はカフェで夜は塾講師とかやってました。いい思い出です。

3回生になり、就職活動をすることになりますが、興味がない方もいらっしゃると思うので、一旦ここで終わりにします。

逆に就活や転職について知りたくてこのサイトに足を運んでくださった方は、こちらを読んで頂けますと幸いです。ここまで目を通してくださって本当にありがとうございます。

記事は近日中に公開いたします!少々お待ちくださいませ。。。

小説がてら、暇つぶしがてら読んでいただけますと諭吉は喜びます。

こんな私ですが、参考になれば嬉しいです。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

諭吉